関ヶ原の戦い(西軍)の家紋
関ヶ原の戦い(西軍)の家紋慶長5年9月15日は「関ケ原の戦い」が行われた日。 今回、関ヶ原の合戦で西軍に属した主要な家である、石田氏、宇喜多氏、安国寺氏、大谷氏、長束氏、小西氏の家紋をご紹介します。
初めにご紹介する「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」は石田氏の代表紋。“勝つ”につながる「一」、“全て”を表す「万」、めでたさを表す「吉」と、めでたい意味をもつ漢字が組み合わせられており、「一人が万民のために、万民が一人のために尽くせば、天下は大吉、すなわち太平となる」といった、「石田三成(いしだ みつなり)」の万民のための政治が表れているといわれる家紋です。昨今、石田三成は名将だったと再注目を浴びていますが、関ヶ原の戦いで敗れた石田氏に関する記録はほとんど残っていません。「大一大万大吉」のほかに「九曜(くよう)」や「丸に三つ星(まるにみつぼし)」も用いていたとされています。
「剣片喰(けんかたばみ)」は宇喜多氏の代表紋。「剣片喰」は、「片喰」紋の葉と葉の間に剣が描かれた家紋で、現在では「片喰」紋より多く用いられています。「宇喜多秀家(うきたひでいえ)」は五大老でありながら、敗戦後、八丈島に流され一生を終えます。「剣片喰」のほかに、旗印として「島形の内児の字(しまがたのにじのじ)」も用いていたとされています。
安国寺氏の代表紋は「武田菱(たけだびし)」。全体が菱形になるよう四つの菱形を組み合わせた「割菱(わりびし)」の、菱形の間隔の狭いものを「武田菱」といい、武田氏の代表紋として有名な家紋です。父は「武田信重(たけだ のぶしげ)」で、武田一門の遺児である恵瓊は、毛利氏の外交僧を経て、大名にまで出世しました。
「向い蝶(むかいちょう)」は大谷氏の代表紋。「蝶」紋は鎌倉時代にかけて流行した蝶の文様が家紋に転用されていったもの。大谷吉継は真田幸村の義理の父であり、石田三成の盟友でした。「豊臣秀吉」にして「百万の兵を与え采配を見てみたい」と言わしめた名将「大谷吉継(おおたに よしつぐ)」は、元の「違い鷹の羽(ちがいたかのは)」の紋を「向い蝶」に変更したといわれています。
「花菱(はなびし)」は長束氏の代表紋。「花菱」は、「割菱」の四隅を花弁のように美化したもので、「菱」紋の一種とされています。五奉行の一人「長束正家」は近江水口城五万石を拝領し、豊臣政権を支えました。関ヶ原の戦いの後、自らの領国に逃亡した、といわれています。
「中結祇園守(なかむすびぎおんまもり)」は小西氏の代表家紋。「祇園守」紋は京都八坂神社で出す筒形の御守りを紋章化したものとされています。「糸車」ともいわれ紋の中に「十字架」を隠した「キリシタン紋」の一種ともいわれています。キリシタン大名であった「小西行長」は「クルス(十字架)」紋も使用しました。
家紋詳細については、本日発表の「名字・名前・家系図/家紋ニュース(Web)(https://kamon.myoji-yurai.net/columnSekigaharaWest.htm)」をご覧ください。
※上記データは6,000種以上の家紋情報を持つ家紋アクセスNO.1サイト「無料家紋ドットネット(Web)」と「無料 家紋」アプリのデータベースから確認できる戦国武将の家紋を抽出。今回調査で第214回目(前回は「関越自動車道IC/PA名にまつわる珍しいレア名字ランキング」を発表)。
慶長5年9月15日は「関ケ原の戦い」が行われた日。 今回、関ヶ原の合戦で西軍に属した主要な家である、石田氏、宇喜多氏、安国寺氏、大谷氏、長束氏、小西氏の家紋をご紹介します。
初めにご紹介する「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」は石田氏の代表紋。“勝つ”につながる「一」、“全て”を表す「万」、めでたさを表す「吉」と、めでたい意味をもつ漢字が組み合わせられており、「一人が万民のために、万民が一人のために尽くせば、天下は大吉、すなわち太平となる」といった、「石田三成(いしだ みつなり)」の万民のための政治が表れているといわれる家紋です。昨今、石田三成は名将だったと再注目を浴びていますが、関ヶ原の戦いで敗れた石田氏に関する記録はほとんど残っていません。「大一大万大吉」のほかに「九曜(くよう)」や「丸に三つ星(まるにみつぼし)」も用いていたとされています。
「剣片喰(けんかたばみ)」は宇喜多氏の代表紋。「剣片喰」は、「片喰」紋の葉と葉の間に剣が描かれた家紋で、現在では「片喰」紋より多く用いられています。「宇喜多秀家(うきたひでいえ)」は五大老でありながら、敗戦後、八丈島に流され一生を終えます。「剣片喰」のほかに、旗印として「島形の内児の字(しまがたのにじのじ)」も用いていたとされています。
安国寺氏の代表紋は「武田菱(たけだびし)」。全体が菱形になるよう四つの菱形を組み合わせた「割菱(わりびし)」の、菱形の間隔の狭いものを「武田菱」といい、武田氏の代表紋として有名な家紋です。父は「武田信重(たけだ のぶしげ)」で、武田一門の遺児である恵瓊は、毛利氏の外交僧を経て、大名にまで出世しました。