全国名字めぐりの旅 第187回 長野県(5)
全国名字めぐりの旅 第187回 長野県(5)
2024/04/08(月) 08:30
長野県には原さんも多い。この原さんも武田家の滅亡後、山梨県から長野県に逃れて来たという伝承を持っている。
たとえば長野県須坂市の原家は、武田二十四将の一人で、「鬼(おに)美濃(みの)」「夜叉(やしゃ)美濃」の異名で恐れられた猛将原美濃(みの)守(のかみ)虎胤の子孫という。武田家が滅んだとき、平左衛門が逃れてきて、帰農した。この家からは昭和2年(1927)に司法大臣を務めた原嘉道が出た。家紋は丸に違い鷹の羽である。
また、松代藩(長野市松代町)に仕えていた原家は、同じく二十四将の原隼人(はやと)佐(のすけ)昌胤の子孫である。代々、隼之進と名乗って明治に至った。松代藩には原美濃守の末裔という原家もいる。 美濃守と隼人佐はともに原姓だが、ルーツは異なっている。美濃守は千葉県匝瑳(そうさ)市原から発祥した原家で、第50代桓武天皇(737-806)の流れをくむ桓武平氏の子孫である。一方、隼人佐は岐阜県恵那市山岡町原から出た原家で、第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏の子孫といい、桔梗紋を使う。
ほかに、諏訪神家から出た原家もあって、長野県の原家は多彩である。もちろん北海道へ渡った家もある。
たとえば長野県須坂市の原家は、武田二十四将の一人で、「鬼(おに)美濃(みの)」「夜叉(やしゃ)美濃」の異名で恐れられた猛将原美濃(みの)守(のかみ)虎胤の子孫という。武田家が滅んだとき、平左衛門が逃れてきて、帰農した。この家からは昭和2年(1927)に司法大臣を務めた原嘉道が出た。家紋は丸に違い鷹の羽である。
また、松代藩(長野市松代町)に仕えていた原家は、同じく二十四将の原隼人(はやと)佐(のすけ)昌胤の子孫である。代々、隼之進と名乗って明治に至った。松代藩には原美濃守の末裔という原家もいる。 美濃守と隼人佐はともに原姓だが、ルーツは異なっている。美濃守は千葉県匝瑳(そうさ)市原から発祥した原家で、第50代桓武天皇(737-806)の流れをくむ桓武平氏の子孫である。一方、隼人佐は岐阜県恵那市山岡町原から出た原家で、第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏の子孫といい、桔梗紋を使う。
ほかに、諏訪神家から出た原家もあって、長野県の原家は多彩である。もちろん北海道へ渡った家もある。
長野県には原さんも多い。この原さんも武田家の滅亡後、山梨県から長野県に逃れて来たという伝承を持っている。
たとえば長野県須坂市の原家は、武田二十四将の一人で、「鬼(おに)美濃(みの)」「夜叉(やしゃ)美濃」の異名で恐れられた猛将原美濃(みの)守(のかみ)虎胤の子孫という。武田家が滅んだとき、平左衛門が逃れてきて、帰農した。この家からは昭和2年(1927)に司法大臣を務めた原嘉道が出た。家紋は丸に違い鷹の羽である。
また、松代藩(長野市松代町)に仕えていた原家は、同じく二十四将の原隼人(はやと)佐(のすけ)昌胤の子孫である。代々、隼之進と名乗って明治に至った。松代藩には原美濃守の末裔という原家もいる。
たとえば長野県須坂市の原家は、武田二十四将の一人で、「鬼(おに)美濃(みの)」「夜叉(やしゃ)美濃」の異名で恐れられた猛将原美濃(みの)守(のかみ)虎胤の子孫という。武田家が滅んだとき、平左衛門が逃れてきて、帰農した。この家からは昭和2年(1927)に司法大臣を務めた原嘉道が出た。家紋は丸に違い鷹の羽である。
また、松代藩(長野市松代町)に仕えていた原家は、同じく二十四将の原隼人(はやと)佐(のすけ)昌胤の子孫である。代々、隼之進と名乗って明治に至った。松代藩には原美濃守の末裔という原家もいる。
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《ぱぴぃ》