全国名字めぐりの旅 第50回 山形県(11)
全国名字めぐりの旅 第50回 山形県(11)
2021/05/10(月) 08:30
寒河江(さがえ)という名字の故郷も山形県である。
山形県には現在でも寒河江市があるが、ここが寒河江さんの発祥地である。
その由来を語るには承久の乱までさかのぼらなければならない。
承久3年(1221)に後鳥羽上皇は鎌倉幕府討伐の兵を挙げた。
これに大江親広が参加する。
親広の父は鎌倉幕府を開いた源頼朝の政治顧問をつとめた大江広元。
広元も我が子の行動には衝撃を受けたが、もともと大江家は京の公家出身なので朝廷とは深いつながりがあった。
そのうえ乱のとき親広は京におり、上皇から直々に協力を請われたのである。
断ることはできなかった。
しかし乱は幕府方の圧勝に終わり、親広は一命だけは助けられて東北に下向を命じられた。
その配流先が現在の寒河江市だったのである。
嫡流は天正12年(1584)、寒河江高基のとき、山形城主最上義光に攻められて滅んだが、一門は山形県内に広く散って現在に至っている。
家紋は「石持ち地抜き算木」をよく使う。
なお親広の弟季広の子孫は毛利と称し、長州藩主となった。
その毛利の家紋は「長門三つ星」である。
山形県には現在でも寒河江市があるが、ここが寒河江さんの発祥地である。
その由来を語るには承久の乱までさかのぼらなければならない。
承久3年(1221)に後鳥羽上皇は鎌倉幕府討伐の兵を挙げた。
これに大江親広が参加する。
親広の父は鎌倉幕府を開いた源頼朝の政治顧問をつとめた大江広元。
広元も我が子の行動には衝撃を受けたが、もともと大江家は京の公家出身なので朝廷とは深いつながりがあった。
そのうえ乱のとき親広は京におり、上皇から直々に協力を請われたのである。
断ることはできなかった。
しかし乱は幕府方の圧勝に終わり、親広は一命だけは助けられて東北に下向を命じられた。
その配流先が現在の寒河江市だったのである。
嫡流は天正12年(1584)、寒河江高基のとき、山形城主最上義光に攻められて滅んだが、一門は山形県内に広く散って現在に至っている。
家紋は「石持ち地抜き算木」をよく使う。
なお親広の弟季広の子孫は毛利と称し、長州藩主となった。
その毛利の家紋は「長門三つ星」である。
寒河江(さがえ)という名字の故郷も山形県である。
山形県には現在でも寒河江市があるが、ここが寒河江さんの発祥地である。
その由来を語るには承久の乱までさかのぼらなければならない。
承久3年(1221)に後鳥羽上皇は鎌倉幕府討伐の兵を挙げた。
これに大江親広が参加する。
親広の父は鎌倉幕府を開いた源頼朝の政治顧問をつとめた大江広元。
広元も我が子の行動には衝撃を受けたが、もともと大江家は京の公家出身なので朝廷とは深いつながりがあった。
そのうえ乱のとき親広は京におり、上皇から直々に協力を請われたのである。
断ることはできなかった。
しかし乱は幕府方の圧勝に終わり、親広は一命だけは助けられて東北に下向を命じられた。
その配流先が現在の寒河江市だったのである。
嫡流は天正12年(1584)、寒河江高基のとき、山形城主最上義光に攻められて滅んだが、一門は山形県内に広く散って現在に至っている。
家紋は「石持ち地抜き算木」をよく使う。
なお親広の弟季広の子孫は毛利と称し、長州藩主となった。
その毛利の家紋は「長門三つ星」である。
山形県には現在でも寒河江市があるが、ここが寒河江さんの発祥地である。
その由来を語るには承久の乱までさかのぼらなければならない。
承久3年(1221)に後鳥羽上皇は鎌倉幕府討伐の兵を挙げた。
これに大江親広が参加する。
親広の父は鎌倉幕府を開いた源頼朝の政治顧問をつとめた大江広元。
広元も我が子の行動には衝撃を受けたが、もともと大江家は京の公家出身なので朝廷とは深いつながりがあった。
そのうえ乱のとき親広は京におり、上皇から直々に協力を請われたのである。
断ることはできなかった。
しかし乱は幕府方の圧勝に終わり、親広は一命だけは助けられて東北に下向を命じられた。
その配流先が現在の寒河江市だったのである。
嫡流は天正12年(1584)、寒河江高基のとき、山形城主最上義光に攻められて滅んだが、一門は山形県内に広く散って現在に至っている。
家紋は「石持ち地抜き算木」をよく使う。
なお親広の弟季広の子孫は毛利と称し、長州藩主となった。
その毛利の家紋は「長門三つ星」である。
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《ぱぴぃ》