実は庶民にも名字はあった
実は庶民にも名字はあった
2020/07/10(金) 08:30
長い間、江戸時代の庶民は名字を持っていなかったと信じられてきた。
これを唱えたのが大学者の柳田国男先生だったから誰も疑わなかった。しかし柳田先生がしっかり調査をしたかといえばそうではなかったらしい。二、三の事例と自分の経験から百姓無苗説に至ったようだ。それでも天下の柳田先生が本の中で農民、とくに中級以下の階層では絶対に名字を名乗ることが許されず、その多くはとっくに名字を忘れていたか、もともと名字を持ってはいなかったと断言していると、これにあえて異を唱える者はいなかった。
そんな柳田百姓無苗説をくつがえしたのが早稲田大学の洞(ほら)富雄教授である。
洞教授は長野県東筑摩郡の寺院で天明3年(1783)と文化13年(1816)の寄進帳を見たとき、そこに署名している1.000人以上の農民が全員、名字と名前を記しているのをみて驚いた。無苗どころか全員有苗じゃないか。文政13年(1830)に作成された長野県南安曇郡の「富士講中名簿」では2.345人の農民のうち、無苗の者はたったの16人だけだった。有苗の証拠が続々と見つかる。確信を得た洞教授は昭和27年(1952)に「江戸時代の庶民は果たして名字を持たなかったのか」という論文を発表した。これで歴史界の流れが180度変わった。
いまでは洞教授の「百姓がみずからの名字を忘却してしまうなど、ありえないことだ」という説が正しいとされている。ただし洞教授も庶民が全員名字を持っていたとはいっていない。都市部に住む町人層だけは名字を使う機会がほとんどなかったため、自分の名字を忘れてしまった家もかなり多かったと述べている。
またその後の研究によると、庶民の有苗と無苗には地域差があるという。西日本では上層農民が下層農民を厳しく監視していたため、いつしか名字を忘れてしまった農民が多かった。一方、東日本では地主や本家が小作人や分家に自分と同じ名字を名乗らせることが多かった。
これを唱えたのが大学者の柳田国男先生だったから誰も疑わなかった。しかし柳田先生がしっかり調査をしたかといえばそうではなかったらしい。二、三の事例と自分の経験から百姓無苗説に至ったようだ。それでも天下の柳田先生が本の中で農民、とくに中級以下の階層では絶対に名字を名乗ることが許されず、その多くはとっくに名字を忘れていたか、もともと名字を持ってはいなかったと断言していると、これにあえて異を唱える者はいなかった。
そんな柳田百姓無苗説をくつがえしたのが早稲田大学の洞(ほら)富雄教授である。
洞教授は長野県東筑摩郡の寺院で天明3年(1783)と文化13年(1816)の寄進帳を見たとき、そこに署名している1.000人以上の農民が全員、名字と名前を記しているのをみて驚いた。無苗どころか全員有苗じゃないか。文政13年(1830)に作成された長野県南安曇郡の「富士講中名簿」では2.345人の農民のうち、無苗の者はたったの16人だけだった。有苗の証拠が続々と見つかる。確信を得た洞教授は昭和27年(1952)に「江戸時代の庶民は果たして名字を持たなかったのか」という論文を発表した。これで歴史界の流れが180度変わった。
いまでは洞教授の「百姓がみずからの名字を忘却してしまうなど、ありえないことだ」という説が正しいとされている。ただし洞教授も庶民が全員名字を持っていたとはいっていない。都市部に住む町人層だけは名字を使う機会がほとんどなかったため、自分の名字を忘れてしまった家もかなり多かったと述べている。
またその後の研究によると、庶民の有苗と無苗には地域差があるという。西日本では上層農民が下層農民を厳しく監視していたため、いつしか名字を忘れてしまった農民が多かった。一方、東日本では地主や本家が小作人や分家に自分と同じ名字を名乗らせることが多かった。
長い間、江戸時代の庶民は名字を持っていなかったと信じられてきた。
これを唱えたのが大学者の柳田国男先生だったから誰も疑わなかった。しかし柳田先生がしっかり調査をしたかといえばそうではなかったらしい。二、三の事例と自分の経験から百姓無苗説に至ったようだ。それでも天下の柳田先生が本の中で農民、とくに中級以下の階層では絶対に名字を名乗ることが許されず、その多くはとっくに名字を忘れていたか、もともと名字を持ってはいなかったと断言していると、これにあえて異を唱える者はいなかった。
そんな柳田百姓無苗説をくつがえしたのが早稲田大学の洞(ほら)富雄教授である。
洞教授は長野県東筑摩郡の寺院で天明3年(1783)と文化13年(1816)の寄進帳を見たとき、そこに署名している1.000人以上の農民が全員、名字と名前を記しているのをみて驚いた。無苗どころか全員有苗じゃないか。文政13年(1830)に作成された長野県南安曇郡の「富士講中名簿」では2.345人の農民のうち、無苗の者はたったの16人だけだった。有苗の証拠が続々と見つかる。確信を得た洞教授は昭和27年(1952)に「江戸時代の庶民は果たして名字を持たなかったのか」という論文を発表した。これで歴史界の流れが180度変わった。
いまでは洞教授の「百姓がみずからの名字を忘却してしまうなど、ありえないことだ」という説が正しいとされている。ただし洞教授も庶民が全員名字を持っていたとはいっていない。都市部に住む町人層だけは名字を使う機会がほとんどなかったため、自分の名字を忘れてしまった家もかなり多かったと述べている。
またその後の研究によると、庶民の有苗と無苗には地域差があるという。西日本では上層農民が下層農民を厳しく監視していたため、いつしか名字を忘れてしまった農民が多かった。一方、東日本では地主や本家が小作人や分家に自分と同じ名字を名乗らせることが多かった。
これを唱えたのが大学者の柳田国男先生だったから誰も疑わなかった。しかし柳田先生がしっかり調査をしたかといえばそうではなかったらしい。二、三の事例と自分の経験から百姓無苗説に至ったようだ。それでも天下の柳田先生が本の中で農民、とくに中級以下の階層では絶対に名字を名乗ることが許されず、その多くはとっくに名字を忘れていたか、もともと名字を持ってはいなかったと断言していると、これにあえて異を唱える者はいなかった。
そんな柳田百姓無苗説をくつがえしたのが早稲田大学の洞(ほら)富雄教授である。
洞教授は長野県東筑摩郡の寺院で天明3年(1783)と文化13年(1816)の寄進帳を見たとき、そこに署名している1.000人以上の農民が全員、名字と名前を記しているのをみて驚いた。無苗どころか全員有苗じゃないか。文政13年(1830)に作成された長野県南安曇郡の「富士講中名簿」では2.345人の農民のうち、無苗の者はたったの16人だけだった。有苗の証拠が続々と見つかる。確信を得た洞教授は昭和27年(1952)に「江戸時代の庶民は果たして名字を持たなかったのか」という論文を発表した。これで歴史界の流れが180度変わった。
いまでは洞教授の「百姓がみずからの名字を忘却してしまうなど、ありえないことだ」という説が正しいとされている。ただし洞教授も庶民が全員名字を持っていたとはいっていない。都市部に住む町人層だけは名字を使う機会がほとんどなかったため、自分の名字を忘れてしまった家もかなり多かったと述べている。
またその後の研究によると、庶民の有苗と無苗には地域差があるという。西日本では上層農民が下層農民を厳しく監視していたため、いつしか名字を忘れてしまった農民が多かった。一方、東日本では地主や本家が小作人や分家に自分と同じ名字を名乗らせることが多かった。
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